グリークラブ(歴史)
【戦前】
グリーの前身である合唱団は、明治35年当時兄弟校であった宮城女学校(現在の宮城学院女子大学)との混声合唱の男声部として発足しました。グリークラブという名称が学院で使われるようになったのは、明治30年代の後半になります。クラスの有志4名が申し合わせてグリークラブを組織しました。指導は、校歌を作曲された神学部教授ザゥグ氏御夫妻で活動としては文学会の折に歌う程度でした。練習は週一回で後にメンバーが増えダブル・カルテットを構成するようになり、それ以後のグリークラブの詳しい事は定かではありませんが、いろいろな会合で合唱を行なっていたようです。
初期の段階では宗教曲中心に活動を行っていたようですが、今回の調査段階では詳しいことはわかりませんでした。ただ活動も規模も小さなものであったようです。
昭和10年以後、対外的に「GLEE・CLUB」と称するようになります。当時も兄弟校である宮城女学校との交流が深く、黒沼幸四郎先生の御指導の下、宗教音楽を中心に本学礼拝・教会関係サービス等の活動を行っていました。その後、グリークラブという名称は使われなくなり、昭和14年頃には「音楽部」という名称になっています。「音楽部」では合唱だけでなく、器楽(ハーモニカ・マンドリン)など音楽全般にわたって活動を行っていました。当時音楽部では年に1回音楽会が開かれており、場所は二番町の中高の礼拝堂が使われていました。
ところで、その頃の演奏会はどんなものだったのでしょうか。プログラムは合唱のみではなく、バンジョー独奏、バイオリン独奏などが見られ、外人の宣教師の方々も参加されていた。この他、学内のパイプオルガン演奏会にも出演しています。このように活動していた「音楽部」も、昭和16年に「学徒報国団音楽班」と名称が変わることとなった。この頃になると、戦争は激しさを加え、国をあげて戦争遂行を最優先する世相では、ひたすら美しいハーモニーを追うことはなかなか難しかったようである。
しかし、当時部長の酒井瞭吉先生等の御指導により、「音楽班」は困難な中にも活発な活動を続けていた。昭和17年学内の礼拝堂で行われた音楽会では、指揮をしたのがのちの部長の小笠原政敏先生です。曲はべ一トーヴェンの「自然における神の栄光」で、当時少人数ながらなかなかの評判であった。練習は昼休みと放課後毎日行い、レパートリーは日本民謡や歌曲でした。昭和18年には、青山学院大学グリーン・ハーモニーを仙台に迎えて、宮域女学校の講堂で演奏会を行っています。これが戦後続く青山との交歓演奏会の最初のものとなります。しかし、この演奏会のプログラムの中にも、戦争の色濃いものが含まれていた。
とはいえ、「音楽班」はこの年、宮城女学校と「第九」を合同で演奏したり、NHKラジオ出演、音楽会等と様々な活動を続けていました。しかし昭和19年になると、「学徒動員」による学業の放棄と共に、合唱の灯も学院から消えて行ったのです。
【戦後 昭和20年~29年】
長い戦争が終わり、昭和20年9月から学院は再び授業を開始した。当時の荒廃と瓦礫の中で、合唱というものは広く人々の心をとらえ、後に全国的にブームを巻き起こすようになった。
我団が初めてコンクールに出場したのは、昭和22年のことです。当時16名のメンバー課題曲は「サンタルチア」、随意曲は「ステンカラージン」でした。またこの年に、第1回目の東北地方演奏旅行(塩釜・石巻・八戸・伊達・中村)が行なわれた。メンバーは男子26外、女子7名程度で混声合唱なども演奏したそうである。しかし、昭和26年迄は、本学礼拝サービス・メサイア・パイプオルガン演奏会賛助出演などが主な活動であった。
昭和27年演奏旅行で初めて北海道を訪れ、北海道の人々から絶賛をうけた他、山形で行われた第1回東北地区大学連合演奏会に参加、故福井文彦氏の御指導を受けるなどの活動を行っていた。又、この年の3月,米軍キャンプチャペル聖歌隊として、NBCを通して全米放送もされた。
このように年々活発な活動を行って来たグリークラブにとって、昭和29年は大きな意味を持つ年となります。飯島文太郎氏が顧問にV.C.Searle氏が専任音楽教師として学院に赴任され、以後クラブの諸活動を様々な面から援助していただくこととなった。我団は、昭和22年頃から黒人霊歌を歌っていましたが、V.C.Searle氏によりその水準は飛躍的に向上し、後に黒人霊歌は我団の十八番となった。
昭和28年頃からは、当学院にも女性の入学者が増え、音楽部にも女性が入る様になり混声合唱も楽しむようになり、この女性達が昭和30年には一本立ちしてキャロラーズとなるのである。
【昭和30年~】
このように年々内部の体制を固めつつあったグリークラブは、昭和30年11月21日、V・C・Searle氏の指揮で記念すべき第一回定演を特別演奏会の名称で開催した。又、演奏旅行も、毎年大規模なものを行っていた他、30年代の初期には、青山学院大学グリーン・ハーモニーとの交歓演奏会を東京と仙台で毎年交互に開催していた。昭和32年には、東北大学男声合唱団、宮城学院女子大学グリークラブ等と共に七声会を結成、12月宮城グリーと合同メサイアを行うなど、対内的にも対外的にもめざましい活躍であった。
コンクールにおいては、昭和32年に行なわれた第11回全日本合唱コンクール全国大会に出場し、関西学院グリークラブ、早稲田大学グリークラブに次いで第3位を獲得、翌33年の第12回全日本合唱コンクール全国大会でも、再び第3位入賞などの成績を修め、10年連続東北代表の座を勝ち取るなど、全国に東北学院大学グリークラブの歌声を響かせた。
部員も、30年代後半には80名を越え、テレビ・ラジオ出演、立教大学交響楽団演奏会に賛助出演するなど、幅広い活動を繰り広げた。
昭和40年には札幌で、北海学園大学グリークラブと第1回のジョイント・コンサートを行い、翌41年には、関西学院グリークラブと交歓演奏会を行っています。この時の関学グリーを指揮なさったのが北村脇一氏で、我団はV.C.Searle氏でした。また、当時の学生指揮者は,「斎太郎節」と「グリークラブ賛歌」を作曲された竹花秀昭氏でした。「斎太郎節」は現在カワイ楽譜出版から出ているグリークラブ・アルバムⅢに掲載されていますが、竹花氏は、「解釈等のいらない本来の自分達の歌」として「斎太郎節」を編曲された。「斎太郎節」が、この交歓演奏会の折、関学グリーに渡され、初めて他団の手に渡ったのです。
昭和43年、この年グリークラブは単独で東京演奏会を行った。それまでは青山学院との交歓演奏会で、東京で演奏会を行ったことはありましたが、我団だけでの演奏会をもったのはこれが初めてであった。客演には、V・C・Searle氏、賛助に米軍第296陸軍吹奏楽団が出演した。この頃を境にして、グリークラブの80年の歴史に於いては苦難の時代にあった。
時は移り,周囲の音楽環境は以前とは比較にならない程豊かになったが、それに反比例するかのように、合唱界全体が低迷期に入り、我団では団員減少という形でその現象が現われた。かつては90名余に及んだ団員も一時は26名程にまで減り、対外的にも、コンクールでは、全国大会で銅賞に輝いた45年を含めて2回、東北大会で金賞を獲得したにとどまった。
そのような苦難の時代にあっても、確かな合唱の灯を絶やすことはなかった。まず、46年には関西学院グリークラブと宮城学院女子大グリークラブと共に三学合同演奏会を開き、成功を修め、そして51年には、新日本フィル春期仙台定演で、故福井文彦氏の「蔵王に寄す」を東北大学男声合唱団と共に初演した。
昭和56年、久々に団員数が50人を越え、定期演奏会をメインに、七声会定演、コンクール、演奏旅行、ジョイント・コンサート、クリスマス「メサイア」演奏や宗教音楽の夕べ等の学内の諸行事……。昭和30年代の黄金時代を彷彿させるような華やかな年間行事が行なわれた。
そして、創立80周年を迎えた年から石川浩氏を客演指揮者として迎え、コンクールでは4年振りに東北大会入賞するに至った。
以上の文章は、OB会のページから引用させていただきました。
現在のグリークラブについては、左上のリンクをクリックください。
グリーの前身である合唱団は、明治35年当時兄弟校であった宮城女学校(現在の宮城学院女子大学)との混声合唱の男声部として発足しました。グリークラブという名称が学院で使われるようになったのは、明治30年代の後半になります。クラスの有志4名が申し合わせてグリークラブを組織しました。指導は、校歌を作曲された神学部教授ザゥグ氏御夫妻で活動としては文学会の折に歌う程度でした。練習は週一回で後にメンバーが増えダブル・カルテットを構成するようになり、それ以後のグリークラブの詳しい事は定かではありませんが、いろいろな会合で合唱を行なっていたようです。
初期の段階では宗教曲中心に活動を行っていたようですが、今回の調査段階では詳しいことはわかりませんでした。ただ活動も規模も小さなものであったようです。
昭和10年以後、対外的に「GLEE・CLUB」と称するようになります。当時も兄弟校である宮城女学校との交流が深く、黒沼幸四郎先生の御指導の下、宗教音楽を中心に本学礼拝・教会関係サービス等の活動を行っていました。その後、グリークラブという名称は使われなくなり、昭和14年頃には「音楽部」という名称になっています。「音楽部」では合唱だけでなく、器楽(ハーモニカ・マンドリン)など音楽全般にわたって活動を行っていました。当時音楽部では年に1回音楽会が開かれており、場所は二番町の中高の礼拝堂が使われていました。
ところで、その頃の演奏会はどんなものだったのでしょうか。プログラムは合唱のみではなく、バンジョー独奏、バイオリン独奏などが見られ、外人の宣教師の方々も参加されていた。この他、学内のパイプオルガン演奏会にも出演しています。このように活動していた「音楽部」も、昭和16年に「学徒報国団音楽班」と名称が変わることとなった。この頃になると、戦争は激しさを加え、国をあげて戦争遂行を最優先する世相では、ひたすら美しいハーモニーを追うことはなかなか難しかったようである。
しかし、当時部長の酒井瞭吉先生等の御指導により、「音楽班」は困難な中にも活発な活動を続けていた。昭和17年学内の礼拝堂で行われた音楽会では、指揮をしたのがのちの部長の小笠原政敏先生です。曲はべ一トーヴェンの「自然における神の栄光」で、当時少人数ながらなかなかの評判であった。練習は昼休みと放課後毎日行い、レパートリーは日本民謡や歌曲でした。昭和18年には、青山学院大学グリーン・ハーモニーを仙台に迎えて、宮域女学校の講堂で演奏会を行っています。これが戦後続く青山との交歓演奏会の最初のものとなります。しかし、この演奏会のプログラムの中にも、戦争の色濃いものが含まれていた。
とはいえ、「音楽班」はこの年、宮城女学校と「第九」を合同で演奏したり、NHKラジオ出演、音楽会等と様々な活動を続けていました。しかし昭和19年になると、「学徒動員」による学業の放棄と共に、合唱の灯も学院から消えて行ったのです。
【戦後 昭和20年~29年】
長い戦争が終わり、昭和20年9月から学院は再び授業を開始した。当時の荒廃と瓦礫の中で、合唱というものは広く人々の心をとらえ、後に全国的にブームを巻き起こすようになった。
我団が初めてコンクールに出場したのは、昭和22年のことです。当時16名のメンバー課題曲は「サンタルチア」、随意曲は「ステンカラージン」でした。またこの年に、第1回目の東北地方演奏旅行(塩釜・石巻・八戸・伊達・中村)が行なわれた。メンバーは男子26外、女子7名程度で混声合唱なども演奏したそうである。しかし、昭和26年迄は、本学礼拝サービス・メサイア・パイプオルガン演奏会賛助出演などが主な活動であった。
昭和27年演奏旅行で初めて北海道を訪れ、北海道の人々から絶賛をうけた他、山形で行われた第1回東北地区大学連合演奏会に参加、故福井文彦氏の御指導を受けるなどの活動を行っていた。又、この年の3月,米軍キャンプチャペル聖歌隊として、NBCを通して全米放送もされた。
このように年々活発な活動を行って来たグリークラブにとって、昭和29年は大きな意味を持つ年となります。飯島文太郎氏が顧問にV.C.Searle氏が専任音楽教師として学院に赴任され、以後クラブの諸活動を様々な面から援助していただくこととなった。我団は、昭和22年頃から黒人霊歌を歌っていましたが、V.C.Searle氏によりその水準は飛躍的に向上し、後に黒人霊歌は我団の十八番となった。
昭和28年頃からは、当学院にも女性の入学者が増え、音楽部にも女性が入る様になり混声合唱も楽しむようになり、この女性達が昭和30年には一本立ちしてキャロラーズとなるのである。
【昭和30年~】
このように年々内部の体制を固めつつあったグリークラブは、昭和30年11月21日、V・C・Searle氏の指揮で記念すべき第一回定演を特別演奏会の名称で開催した。又、演奏旅行も、毎年大規模なものを行っていた他、30年代の初期には、青山学院大学グリーン・ハーモニーとの交歓演奏会を東京と仙台で毎年交互に開催していた。昭和32年には、東北大学男声合唱団、宮城学院女子大学グリークラブ等と共に七声会を結成、12月宮城グリーと合同メサイアを行うなど、対内的にも対外的にもめざましい活躍であった。
コンクールにおいては、昭和32年に行なわれた第11回全日本合唱コンクール全国大会に出場し、関西学院グリークラブ、早稲田大学グリークラブに次いで第3位を獲得、翌33年の第12回全日本合唱コンクール全国大会でも、再び第3位入賞などの成績を修め、10年連続東北代表の座を勝ち取るなど、全国に東北学院大学グリークラブの歌声を響かせた。
部員も、30年代後半には80名を越え、テレビ・ラジオ出演、立教大学交響楽団演奏会に賛助出演するなど、幅広い活動を繰り広げた。
昭和40年には札幌で、北海学園大学グリークラブと第1回のジョイント・コンサートを行い、翌41年には、関西学院グリークラブと交歓演奏会を行っています。この時の関学グリーを指揮なさったのが北村脇一氏で、我団はV.C.Searle氏でした。また、当時の学生指揮者は,「斎太郎節」と「グリークラブ賛歌」を作曲された竹花秀昭氏でした。「斎太郎節」は現在カワイ楽譜出版から出ているグリークラブ・アルバムⅢに掲載されていますが、竹花氏は、「解釈等のいらない本来の自分達の歌」として「斎太郎節」を編曲された。「斎太郎節」が、この交歓演奏会の折、関学グリーに渡され、初めて他団の手に渡ったのです。
昭和43年、この年グリークラブは単独で東京演奏会を行った。それまでは青山学院との交歓演奏会で、東京で演奏会を行ったことはありましたが、我団だけでの演奏会をもったのはこれが初めてであった。客演には、V・C・Searle氏、賛助に米軍第296陸軍吹奏楽団が出演した。この頃を境にして、グリークラブの80年の歴史に於いては苦難の時代にあった。
時は移り,周囲の音楽環境は以前とは比較にならない程豊かになったが、それに反比例するかのように、合唱界全体が低迷期に入り、我団では団員減少という形でその現象が現われた。かつては90名余に及んだ団員も一時は26名程にまで減り、対外的にも、コンクールでは、全国大会で銅賞に輝いた45年を含めて2回、東北大会で金賞を獲得したにとどまった。
そのような苦難の時代にあっても、確かな合唱の灯を絶やすことはなかった。まず、46年には関西学院グリークラブと宮城学院女子大グリークラブと共に三学合同演奏会を開き、成功を修め、そして51年には、新日本フィル春期仙台定演で、故福井文彦氏の「蔵王に寄す」を東北大学男声合唱団と共に初演した。
昭和56年、久々に団員数が50人を越え、定期演奏会をメインに、七声会定演、コンクール、演奏旅行、ジョイント・コンサート、クリスマス「メサイア」演奏や宗教音楽の夕べ等の学内の諸行事……。昭和30年代の黄金時代を彷彿させるような華やかな年間行事が行なわれた。
そして、創立80周年を迎えた年から石川浩氏を客演指揮者として迎え、コンクールでは4年振りに東北大会入賞するに至った。
以上の文章は、OB会のページから引用させていただきました。
現在のグリークラブについては、左上のリンクをクリックください。